KIKUSAWA Ritsuko

散歩道(エッセイ集)

ルソン島 八百万(やおよろず)の神々

 マニラに帰るお金がない。ギナアン村での盗難は徹底していて、二人ともポケットに入っていたお金以外はすべて持っていかれてしまった。その上、刺しバエへの過剰反応で、私は数日前から首も耳も手足も、村の人たちが目を背けるほどのひどい様相を呈して腫れ上がっていた。泣きっ面に...ハエ(?!)とは、まさにこのことである。

 それでも、残った小銭をかき集めて鶏を買い、私の誕生パーティーをする、という。みんな楽しみにしてるからキャンセルできないよ、と。確かに、盗んだ人たちと世話になっている人たちは別だし、誕生日が大判振る舞いの口実なら、私本人がどんなに参っていたって関係ない。一緒に買い物に来てくれた女の子が、足りるかなぁ、とつぶやくのをわざと無視して(だって文字通り、お金がないんだもの)小さな鶏一羽と、「サラダ」と呼ばれる誕生日の特別料理(マカロニと缶詰めのフルーツ・ミックスをマヨネーズとチーズであえたもの)の材料を買った。自分で料理をしなくていいから、その点はまだ楽である。

 さて、鶏に限らず動物をさばくのは男性の仕事である。伝統的な手順の中で一番大切なのは、横っつらを棒で何度も殴ること。これは、泣き声をあげさせて、神々にこれから捧げものがあるというのを知らせるのが目的だとか。家の長はすでに村の行事で泥酔して眠り込んでおり、かわりに親戚筋にあたる男性が来てくれた。ピドピドワ(Pidpidwa、二度目)という名前は、二人目に生まれたからついたのかと思っていたら、刑務所に二度ぶちこまれてついたニックネームだそうだ。彼は黙々と、けれども慣れた手つきで鶏をさばきだし、それにしてもけたたましい鶏の泣き声に、女性たちはいたたまれずみんな外に出てしまった。男性たちと、学術的(?)好奇心ではりついている私だけが残り、なんとなくすごみのある(ように見える)横顔を黙って見つめている...

 と、ふいにピドピドワが顔をあげ、満面を笑顔にして「胆嚢が飛び出てる。吉兆だよ」と言った。「吉兆だよ、吉兆だよ。」きょとんとしている私たちの前におなかがぱっくりあいた鶏をわざわざ持ってきて、無邪気に胆嚢を指差してみせる。「問題が解決するよ。」そしてまた嬉しそうに大声で笑う。不思議なことにそのとたん、お金のこともハエのこともどうでもいいような気になって、私も一緒に笑いはじめた。周りのみんなも一緒に笑い出した。「吉兆だよ、吉兆だよ。」

 突然の明るい笑い声を聞いて戻って来、「問題解決って、具体的には何がどうなるというのよ」と、真顔で聞き返したドイツ人研究者。ジンのしずくを地面にこぼしながら、神々への感謝のことばを述べるピドピドワと、その横で同じくコップを傾け数滴たらしながら、こちらは、キリスト教の感謝のことばを唱える村の若い男性。二つの祈りが流れる横で、私は、かぶれに効くという薬草のしぼり汁を村のおばさんに塗ってもらいながら、先に自分でつけたステロイド製剤が流れてしまわなければいいな、と心の中で思う。この村ではいつも、伝統と現在が、なかよく隣り合わせだ。

 後日、懸賞金をつけたとたん、鍵をこわして盗みに入った子供が7人ぞろぞろと捕まったが、村の会議では埒があかず、結局は地域の警察のお世話になることになった。「警察」は西洋から入った新しい組織だが、もちろん何事も村の長に話を通してからとり行うのである。そして、目には見えないところで、古い神様たちと新しい神様たちが、黙って人々を見守り続けている。



2003. 「民族のこころ(140)ルソン島 八百万(やおよろず)の神々」 『通信』 108: 22 掲載.